日本における同性愛の歴史


1 はじめに

 現在、日本において男と男の性愛関係への見方はどのようなものだろうか。 近年以前に比べれば市民権を得てきているという声もあがってはいるが、 やはりまだ、世間一般に認められているとはいい難い。しかし同性愛という言語が作られたのは、わずか100年前の、1896年である。ハンガリーの医師、ベンケルトBenkertによって、男女を問わず、同性のものを対象とする性的趣向として分類学上命名されたものである。つまりそれまでの性愛行為には、その対象が同性や、異性であることを区別する言語は存在しなかった。"Homosexual"や" gay" という言葉は近世になって作られ、西洋において“悪”と結び付けられた概念である。

2 男色

 現在において、同性同士の恋愛を表現する言葉としてもちいられるのが、「同性愛」である。しかし「愛」という言葉自体、日本語元来のことばではない。Homosexual1という言葉ができる前、日本では井原西鶴の『男色大観』のように、「男色」という言葉が用いられた。
 男色とは、男性同性愛を指し、英語でのhomosexualityにあたる。しかし、そこには日本人の男性同性愛への考え方が現れている。すなわち、「色」としての男色である。
 「色」は日本に古くからある概念だが、愛や恋愛という言葉は明治時代の輸入品である。
 「愛」はloveの訳語として北村透谷によって定着され、さらに精神的関係をより強調した形の概念として日本に受け取られた。そして現在用いられる「恋愛」という概念は、異性間にしか成立しない言葉でもある。
 他方、「色」という表現は、恋において肉体関係と精神的関係を明確に二分することなく前者をも包含し、かつ、それを抑圧し、低俗と見なさない点に特色がある。そしてまた男と女の恋にかぎらず男と男の恋をも含めたものであった。これをさして「色道ふたつ」という表現が生まれたのもそのゆえんである。
 色道とは無秩序な性の欲望を噴出させる道ではなく、書道、華道、茶道など様々な道を動員し、人生のひとときを美的な、非日常的な時空間にするための手段だったのである。そしてこのことがゆえに性は俗ではなく、聖の領域にあったことを読みとることが求められるのである。

3 男色の歴史

 日本の男色の文献上の初見は、『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条、小竹の祝と天野の祝である。書紀からは読みとれぬが、祝という神に近い存在の間に男色が存在したことは、日本社会に古くから根付くものであることを示しているのではないだろうか。
 恋としての男色は、僧侶と稚児という形で、中世寺院に多く見られはじめる。稚児とは、寺院において僧の身の回りの世話などをし、仏道に関して学び、また歌舞音曲の伝授を受ける少年を指す。出家を目指す見習い段階であるが、実際には教育のために寺に入れるという意味合いが強い。
 院政期の院の近臣たちは稚児上がりのものも多く、院と深い関係を持っていた。藤原頼長『台記』にはその奔放な男色関係の多くが描かれる。
 さて、稚児男色の発生因だが、仏教の女人禁制の中での性のはけ口という考え方がなされている。実際に、それが大部分を占めると思われる。稚児による性欲の処理は所詮女子をあいてとするのと何の変わりもないことである。源信は『往生要集』で次のような警告を発する。

また別処あり。多苦悩と名づく。謂く、男の、
男において邪行を行ぜし者、ここに堕ちて苦を受く。

 源信においては、当然に性愛、性欲の禁止という方向を見て取ることが出来るのである。しかし、その正論に対抗して、なぜ男色の隆盛が起こったのだろうか。
 ここで注意しておきたいのは稚児=少年を神仏の顕現と見なし(比叡山に初めて登った最澄は十禅師神の化現した少年と出会った。また『稚児観音絵巻』をはじめとしたいくつかの絵巻に見られる)、稚児との肉体的交わり自体を神聖視する宗教的側面もあったことである。このことは宗教が、男色において大きな機能を果たしていることをさらに裏付けよう。つまり、仏教は性欲の処理としての男色を聖性との関わりの中で許容し、さらに男色の中の美意識にまで介入して行くことで、それを仏教自体の一環となそうとまでする。節を改める。
 中世の稚児物語においては、主人公(主に僧侶だが)はほとんどの場合、桜の木の下で美少年と出会う。美少年の恋と死が、現世のはかなさのメタファーとして現れているのである。仏教が無常というものを美しい者の滅びやすさという面から説くのに利用されているのである。
 これはそのまま少年愛の美意識、また少年美の追求の大きな要素として後代に受け継がれて行く。すなわち、少年の聖性(両性具有に起因するものともいえようか)と、一過性である。世阿弥の『風姿花伝』のなかでの「少年は時分の花」という言葉がなによりもその心を表す(世阿弥自身、藤若として足利義満に侍っていたことはすでにあきらかとされる)。桜がその象徴とされている。

4 近世の衆道

 世阿弥が能を大成すると、それをうけて男色とその美意識は、芸能に乗って大衆間に広まる。多数の謡曲が生まれるのもこのころである。
 戦国期に入ると武士たちの間に、男色が目立って流行しはじめる。そこには、女性の排除による男性集団の結束の緊密性の確保、より高度な礼と義の関係を築く、という新しい目的意識=尚武の気風があった。
 江戸時代には、衆道という言葉が用いられるようになってくる。衆道は男色にさらに武士道を加えたものと理解されよう。男色の美意識と思想と武士道の思想は実に近いものがあった。義として浮気を堅く戒め、命を捨てる覚悟(葉隠)。衆道が、義兄弟の形を伴うのもそのためである。
 これは二君に見えずという思想=主君への恋心に通ずる。それゆえに衆道の美意識は、「刀」に尽きるのである。
 桜の下、白い着物をつけた美少年、切腹による赤い血とはまさにその文脈に受け継がれたイメージである。江戸初期、死を賭した恋として、仇討ち、殉死が頻発したのではなかろうか。

5 明治時代

 殉死が秩序への反抗という構造(殉死すれば社会構造=身分の違いを打ち破って主君との一体化が可能になる)を持つことに気付くと、幕府は衆道をも禁圧の対象とした。同時期、衆道は、戦国の遺風=蛮風として、たおやかな文治の世にはなじめず、次第に衰えて行く。そして明治維新により西洋文明がもちこまれ、日本人の生活様式のみだけじゃなく、日本人の思想にも大きく影響を与えた。

○近代の同性愛者の人権に関する日本の動きについて

1995 日本において、心理学協会によって、同性愛は障害ではないという公式見解が発表される。東京を基盤とし活動するセクシャルマイノリティー団体OCCURによると、Japanese Society of Psychiatry and Neurology (JPSN)は同性愛を、障害ではなくPERVARSIONとして記載した。
 アメリカの心理学協会は1973年の段階において、同性愛は“性的異常行為”ではないととらえられていた。その後、WHO(世界保健機構)も同様の見解を発表した。それにも関わらず、日本においては1995年まで、20年ほど遅れていた。1993年OCCURがJSPNに対し、同性愛への公式見解を求めたが、実際に公式見解の発表にいたったのは、国際的世論の圧力を受けた後である。

○近年の日本における、同性愛者の、特に人権においてのとりあつかい

1996年

東京都が、裁判において同性愛者への差別を正当化

5月16日
 東京高等裁判所において、公営施設「府中青年の家」が、同性愛者の使用を認めないという方針をあらためて提出した。そのような差別は違法であるというのが地方裁判所における判決であった。この裁判は1991年、東京都教育委員会によって、同性愛者によるユースホステルの使用を、禁止した後、日本におけるセクシャルマイノリティー団体、OCCURが提訴したもの。
 日本青少年協会会長は、同性愛者の存在は他の青少年に、性的緊張感を与え同じ施設を利用しにくくなる。との理由で同性愛者の施設使用の禁止を正当化した。しかしこれには明確な証拠が伴わなかった。1996年、国際ゲイレズビアン協会の支援も裁判の判決を左右する大きな要素となった。1年後の1997年に勝訴確定にいたる。

2000年
東京都議会が同性愛者の人権を人権指針骨子に含めず。

6月に可決された人権指針骨子の最終案において、同性愛者の人権が排除された。OCCURはこれまで様々な活動において、東京都議会に働きかけ人権法案に、同性愛者の人権についての項を含めることを主張してきた。

12月
 東京都議会、新たな人権対策法案において、同性愛者に対する差別の保護が加えられる。
2001年
12月
 法務省「人権擁護推進審議会」最終答申案の全文が明らかになる。同性愛に対する差別も明記差別の例示に「性的指向」も使用される。